海辺のカフカ再読 -村上春樹の変遷-

私は筋金入りのハルキストである。学生時代、運良く「風の歌を聴け」を手に取り、それ以降刊行された順にずっと読んできた。「ノルウェイの森」も初版で持っている。エッセイも読破しているし、旅行記も好きで、村上春樹は本を出したら何が何でも買うという数少ない作家の一人である。
海辺のカフカ」を買ったのは去年のことだった。しかし、ねじまき鳥、国境の南、スプートニクとだんだんトーンが下がってきてるなぁと思っていた私は、買ったもののそんなにすぐにがーっと読む気にはなれず、サラっと読んだように思う。その頃はとにかく縁日のタコ焼き機のようにフル回転しており、文学を受け入れる状況になかったというのもあるし、村上春樹のメロウなリズムとシンクロがしにくかった。結局ナカタさんの語りはよかったものの、物語としてはピンと来なくて古本屋に売ってしまったのである。
時は流れ、1年ぶりに「少年カフカ」という村上春樹氏と大勢の読者のメール対談集のようなものを読んでみた。春樹氏の本はやはり書いたいし、装丁もマンガ雑誌のようで面白そうだったからである。で、読んでみると、「海辺のカフカ」の話題ばかりで(当たり前だけど)、無性にもう一度読みたくなった。でも本は売ってしまってもうない。ブックオフにもなくて、結局図書館で借りてみた。
そして再読したのだけど、今度は面白かった。一文一文が練りこまれていて、フレッシュなレタスを食べるような感じでシャクシャクと読めた。これは今、自分が文学的なものを感じられる余裕があるということもあるし、メロウな世界にもなじめる気持ちを取り戻していたというのもあるだろう。楽しかった。
そして、村上春樹の変遷について考えてみる。
初期の羊三部作、そしてノルウェイの森は「喪失」の物語だったのだろう。喪失してしまった哀しみ。そういうものに共感を見出せたのだと思う。ひっそりとした静かな世界。思い出に留まること。そんな感じなんだと思う。しかし、「海辺のカフカ」は再生の物語だった。かつての村上作品にはほとんどなかった現実というファクター、しんどさ、争い、不器用さというのが描かれている。主人公が、かつてスマートでサラっとしていた「僕」から、ジムで体を鍛え環境を乗り越えようとする「田村カフカ」に変わっている。これは氏がオウム事件阪神大震災911事件などに実際に取材して触れたことによってもたらされたものかもしれないけれど、現実に生きる、立ち向かって行くという姿勢が見える。なかなか意義のあることだと思う。
しかし、離れて行く村上ファンも多いだろう。その1つには、「現実と戦う」というテーマは多くの作家がわりとうまく書いているけど、「喪失」というテーマできちんと書けている作家は村上春樹くらいしかいないのである。そういう喪失に対する同情みたいなフィーリングはなかなか得られないもので、そういった状況から、残念だと思うファンも多いのだと思う。
奇しくも氏は少年カフカの中で「そういう状況は、ボブディランが生ギターからエレキに変えた時のファンの反応のようだ」と的を射たことをおっしやってるけど、ほんとにそうだよなぁと思う。生ギター好きだったよ、みたいな。
もしかしたら、氏は喪失を書くことによって回復してしまったのかもしれないな、とも思う。
春樹氏も既に54歳である。好むと好まざるに関わらず、変化して行くのだろう。

でも海カフを読むと、現実と対峙して行くという厳しい状況にあっても、きちんと春樹らしさが発揮されている。恐ろしく優しいのである。丁寧にわかりやすく、そして優しさと思いやりをもって書かれているなと思う。そういう部分はやはり春樹氏にしか出せないような気がする。
氏には子供はいないが、小説の一つ一つを子供と思っているんだそうだ。そうすると海辺のカフカという作品はずいぶんと手塩にかけて育てられているなぁと思う。

それでも少年カフカを読んでいると、そのコメントの中に春樹らしさを感じてなかなか良かった。あの小説の語りの断片がすっすっと現れるようで。
今度出される本もまた買おうと思う。

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