墨のように

存在とはそもそも許容されるべきかどうかという次元で語られるものではないのだとふと思った。
生きてていいとかダメとかそういうもんでもなく。既に既成事実として明らかに存在しているし。
それはもう墨のように、ポスターカラーのようにくっきりと。
多分、自分に対する罰として発生した概念ではないかと。
生きてていいのかと問うことには逃避しやすい。でも結局は存在してるのだから、現実にいかに対処するかに問題は収束される。それ以外はただの時間の浪費にすぎないのだろう。生きててはダメと言われても死ぬわけ無いんだし。まあ若干の逃避は必要悪であるケース・ガス抜きの場合もあるんだろうけど。
逃避対象が消えると、罪悪感だけが残って良くない感じである。
生きてるってことは存在してるし、存在してる以上、臆することは無い。存分にタクトを振るえばよいのだと思う。