群集の中の点 / ソフトタッチ

インフルエンザもようやく下火になってきたので、昨日は宴会に出席。まだ残っているウイルスをアルコール洗浄してやろうというハラである。酒は命の薬なり〜と、いそいそと友達ん家へ。友達数人と鍋をつつくことになっていた。

その友人宅は社長なので、3階建である。しかも部屋が超広い。同じ社長なのに私とはエライ違いである。(いずれはハワイに大豪邸をおったてて、馬に乗って小作人を見回ったり、ハーレム作ったり、ゴルフしたりするからいいんだけど)。

まあ妄想はともかく、広い部屋の中で既に鍋は準備されており、酒も満タン。ビールから日本酒までなんでもありである。当初はインフルエンザで憔悴気味だった私も鍋を食べるうちにどんどん元気が湧いてきた。
酒もおいしい。話にも徐々に参加して(←欲しい食べ物が目の前にあるうちはしゃべらない奴)盛り上ってきた。
ちなみにそこにいたのは男女二人ずつ。それぞれ決まった恋人がいないという一見モンモンなメンツである。女の子は二人ともまず美人と言っていいだろう。しかし、それぞれの事情のためにちっともそういう雰囲気にはならず、私も少しオッパイをウルフスキャンする程度に留めた。



んで、フレンドリーな雰囲気の中で酔いつつ、いろいろ考えたんだけど、自分を意識する際、自分一人として意識するか、群集の中の点として意識するかでだいぶ違うなと思った。例えば部屋でこうして1人でキーボード叩いてる自分は1人だし、自分だけとして意識してかまわないけど、一歩人波に出ればそうではく、他人に対しての自分の位置関係というのを意識する必要が出てくる。共生ということだ。

この切り替えって結構重要である。切り替えないと、いきなり1人の空間に他人が出現するから、びっくりしたり、急に対応できなかったりする。長い間1人でいると、その他人との押し引きの感覚がわからなくなって戸惑ってしまう。

私は長らく、自分さえ強くなればいいと思ってたので、あんまり共生ということは考えてこなかったのだけど、そのせいでずいぶんと余計な敵を作ったり、仲間には入れなかったりした。
他人と共生するということは、即ち、自分の頭の中で他人の存在とその行動をシュミレートし、その複雑な3次元の中で自分はどうあるべきかということを常時考えておくということなのである。

私がそれを無意識的に避けつづけてきたのは、そうやって他人のことを考えるのが物凄く面倒くさいことであるからなんだと思う。
私は効率・スピードを激しく好むので他人に何かをやってもらう前に自分でやってしまうし、頼んだり、頼むためにその方法を伝えたりする面倒くささがたまらなく嫌なのだ。

しかし、その弊害として自分の考えを誰かにうまく伝えることができなくなっている。自分さえわかってればいいやという感じで。
でもそれでは共生していけないんだよねぇ。面倒くさくても、他人の立場、考えに細かく対応していくということをやらねばならぬのだ。
なぜか。 それは、自分がそうしてなくても相手が自分のためにやっているからだ。相手だって手間をかけて心のリソースを裂いて私とうまくやろうとしているのである。だったらこっちも相手のことを考えるのは当然じゃん、ってことなんだよね。相手にも敬意を持って接すること。
教科書には載らない社会のシステム。これを知ってると知らないとではえらい差があると思いますね。

しかし、そういうコントロールって、箸で数の子の卵を潰さないように取り分けていくような超ソフトタッチだから、やりにくいんだけども。そして、自分だけがわかってればいいと思ってたことも、きちんと誰かに伝えるべきだと思う。社会一般の言葉にエンコーディングするってこれもなかなか難しいんだけども。

慣れればなんとかなるという感触はあるかな。


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