キャンバスの前にて

例えば大きなキャンバス、何号というのか知らないけど、たたみ二畳分くらいの真っ白なキャンバスを前に置かれて、いきなり「何を書いてもいいよ」と言われてみると、結構戸惑うものではないだろうか。
そこには何の手がかりも無く。ミミズのような線を書くわけにも行かず、途方にくれる。
ふと周りを見渡してみると、人々のキャンバスにはなんらかの絵がかかれている。混沌とした絵も綺麗な絵もあるが、共通して言えることは、それらの絵は時間という試練を経てきている。なんらかの事象に対して、その絵なりに何かを返す力を持っているのだ。

キャンバスには自分を載せていくものだ。それが正義であれ悪であれ、そこには自分で決められる法則性というものがある。その自由に気づくのが早いか遅いか。
私はかなり遅かった。

だからまだあんまり大きな絵は書けていない。
でも30cm四方ほどなら、もう決まった絵が描ける。
それと知らずになんとか築き上げてきたもの。核のようなもの。
そういうのは一応ある。

これから多くの外部物質をキャンバスにぶつけていくことになると思う。外部のものをぶつけてこそわかる自分というものもある。私という絵はどういう絵なのか。
そういう具体的な自己像が持てたら、何か自信につながるような気がする。自分が何者かわからないと不安なものだし。

だんだんキャンバスの絵を広げて自分らしさというものを出していければいいんだろうと思う。
人のキャンバスに合わせないで、自分のキャンバスを広げられるというのは気持ちがいい。そして誰かが
「あなたのキャンバスはなかなかいいね」
と言ってくれるとなおいい。
(あんまり一人よがりな絵を書いてると、なかなかいいとは言ってもらえないけど)
もちろん人のキャンバスに合わせていると、相手によって絵を変えないとダメなので大変苦しいし、統一性がとれなくて結局は破綻してしまう。
それよりは同じ一枚の絵をずっと掲げておく方が面倒くさくなくていい。気に入らない人はそれまで(笑)

そんな感じで徐々に絵のサイズを広げていけたらいいと思う。

日記才人投票(修理済)