光が差し込むかどうか / 魂の残量

僕はプレイボーイではありません(笑)>私信



何か壁に行き当たってたりしてて、悩んだり苦しい気持ちになることはあるけど、だいたいにおいて、それは解決法が見えてないからということになる。問題が複合化しているとさらにそれは顕著だけど、そんな時は悪あがきしたら余計に問題をこじらせるだけなので、静かに座して、頭をフル回転させて解決に至る道筋を考えるのがベストだ。
悩んでいる時は健康が優れないし、頭も重い。日常生活もギスギスする。何か自分に罪悪感を感じたりもする。でも元を辿れば「解決法を思いつかない」のが問題であって、それを打破するには「解決法を思いつく」しかない。いったん解決法を思いつけば、悩みや体の不調なんかはたちまち解決するのである。要は脱出口から漏れる光が自分に届いているかどうかが全て。光が見えたら後は進んでいくだけなので、一気に気が楽になる。どうやったらその光を見つけられるか、光を当てる方法は何かを必死に考えるのがいいと思う。解決法は必ずある。
そういえば、「夜明け前の夜が一番暗い」と言うけど、ありゃ嘘である。日の入りから日の出までの夜は一定して暗い。そして人生になぞらえた場合、一度日が沈むと二度と日の出は来ない事も実は多い。冬来たりなば春遠からじもそうで、冬に凍え死にすることはいっぱいある。夜を明るくするためには自分の手で太陽を引っ張り出さないといけない。他人任せじゃなんともならない。(ただし、助けて〜と声を限りに叫んだ方がいいけど)。そして日が昇り、沈みそうになったら蹴り上げてでも沈ませてはならない。人生いつもどっぴーカンのカンカン照りがいいと思う。

それにしても最近思うのは、自分の中の燃料が少ないなぁということである。燃やすものが少ないというかガッツが少ないというか。
よくよく考えてみると、自分は失恋のたびに魂を失っていったのだと思う。まず最初の大きな失恋で74%ほど、次の失恋で13%、三番目の失恋でさらに7%。その次は自分がかなり愛されていたけど、失ってしまった失恋で2%。(これにはびっくりした。自分から愛してなくてもある程度魂は失うのだ。してみると愛されるということは愛するということにかなり近いものなのかもしれない。それはどっちが先かという問題だけで、一度通じてしまえば愛としては同値になるかもしれない。でも話題が離れるのでメモ程度)。
結局、今の魂の残量は4%ほどしかない。生まれた時が100%だから実に残り少ない。いやはや出がらしの茶っ葉というかなんというか。枯れている。
しかし、欲望自体はあまり減少してないし、知能程度が低下したわけでもないから、燃料だけが少ないということになる。いろいろ踏ん張りたいときに踏ん張れないし、何かというと眠りたがる。これは問題である。
そこで考えたのが、一度死んだ魂を掘り起こすということである。例えば最初に好きだった女の子に去られて魂は凍りつき、すっかり鬼籍に入ってしまったが、彼を掘り起こすことは出来ないだろうか? あの恋は10代の時の恋だったし、もはや時効。私はこれからも生きていかねばならないので、やはり少ない魂ではどうしても乗り切れない。しかし、あのことをすっかりあきらめて・・・と思ってみると、やはりダメだった。何十年経っても愛してるものは愛してるのだ。魂はカチコチに凍っている。そういえば失恋してから何年か後に新しい人生を歩もうとして彼女に電話してみたが、そして和解したような感じになったけど、やはり氷は溶けなかった。もはやそれ以上彼女に迷惑をかけたくなくて突っ込みが甘かったというのもあるが・・。
それに魂を掘り起こすというのは、その恋の永遠性を打ち消すようなもので、やはり躊躇してしまう。全てを捧げたと思いたい。それでもう死んでしまいたいと思ってるのかもしれない。
んー、でも書いてるうちにだんだん方向性が見えてきた。もうそれは一度死んだものとしてやり直すべきであるかもしれないと。破壊されたと思っていた希望や夢なんかは再構築が可能で、取り戻すべきだと。そもそもそれはそんな風になくすべきではなかったのかもしれないと。
やっぱり生きなきゃ。いつまでも氷を抱いていちゃいけない。
もしや、これが失わなければ得られないものがあるってやつ?
10年以上氷を抱いて生きてて、そのまま行けばずっとこんな風に屍のままに行くんだなとだいたいわかった。
それなら、違う展開も見てみてもいいかなと思う。違う風景。暖かい血の通う風景。
あの愛は嘘だったという風には思いたくないけど、そこにこだわっていたらどこにも行けない気がする。もしかしたら、あれもこれも皆本当だということもあるのかもしれない。一回こっきりの使い捨てではないのかもしれない。
愛はリサイクル可能なのかもしれない。
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