他人の目から見る / 捨てたものでもない

かなり書きたい事が溜まってるはずなんだけど、こうして座ってみたら、スパッと出てこない。やはり思いついた時に書くのが一番いいんだけど、なんせ激忙の毎日。いや、むしろ毎日が忙しいのなら、これは普通という状態かもしれない。普通に時間がないってことか。
まあいいや、思い出しながらじわじ書いていこう。

昨日は六本木にて飲み。最近は温度も上がってきて調子が良く、話も盛り上がる。わかってきたのは、やはり自分というものを客観的に見るのが大事だなということ。ただ、客観的というのは言葉が難しくて、なんていうか、誰か他人の立場に立って、自分を見てみるということである。他人の目を使って自分を見てみる。常に自分を他人の眼から見ていると、実際に他人から見られてもそう感じることはない。じろじろ見られるのは嫌いなんだけど、いつも自分で他人の目から見ていたら、そんなに苦痛ではなくなる。
他人の目から自分を見るということは、社会に参加するということである。一人よがりでいたら、当然他人から見る自分というのはだらしなくなるし、ピシっとしてない。ホームレスチックである。人は他人の眼から見る自分というものをある程度制御する必要がある。私はわりとなりふり構わないほうなので、そういう点では非常にデキが悪い。
ただ、それは社会参画が苦手というわけではなく、単に面倒くさいだけである。自分の考えたいことを考えたいし、いちいち人の目を気にするのが嫌だとも思っている。しかし、そういう行動を取りつづけると、社会から浮くし、浮いてしまうと生きにくく、結局、大幅な迎合行動を取らないとダメなので効率が悪いのである。ということは、最初からある程度、他人の目から見た自分というイメージを調整し、備えておかねばならない。面倒くさいけど、手間はその方が小さいのである。
ただ、エネルギーを極度にロスしていると、そういう準備行動は取れなくなる。私も忙しくて死人並にバイオレベルが下がると、大変無愛想になる。そういう状態に追い込まれないことがベストなのだが、残念ながら裂け得ないものだ。特に1人で仕事をしていると、ストッパーがなくストンと落ちることがあるので、気をつけたいところ。そんな時、私はよく日記を書いていたりする。人に会っていると平気なんだけど。
人は真っ白な部屋に置かれるとすぐに発狂するというが、自分の発信する信号に対して反応が何もないというのは辛いのだと思う。くだらない話でも、誰かが自分に対して心を動かしているというのを感じるというのはメンタルヘルスにとって重要だろうなと思う。
まあとにかく、他人の目で自分を見つめつづけてみるというのはなかなか当たりな感じだった。ついでに自分の中に誇りをたわめるとさらにいい。ボーっと自分が拡散してしまうと良くないので、集中しておく。集中してるとイヤな記憶とかを思い出す時もあるんだけど、拡散して忘れるよりは戦った方がいい。「絶望は愚か者の結論」とキルケゴールも言っている。多分、絶望は勘違いに起因するのだ。自分が自分の味方にまわって行動する限り、不合理なことはないはず。自分が自分の敵になった時、人は絶望するのだと思う。真の自分を受け入れるしかないのだろう。
と、考えていると、嫌な記憶もいい記憶になったりする裏切られたとしても、自分の側にそんなに責任はないわけで、自分の思ったとおりに行動したならしょうがない。今、いくつかの辛い記憶を思い出してみても、そういう目で見ればそんなに悪くなかったじゃんと思う。自分はきちんと信じて、好意を持って動いたわけで。まあ自分がバカだったのはまずかったけど、頑張ってこれからバカじゃないようにしていくしかない。学ぶしかないな。
でもあの頃は気持ちいいほど純情一直線だったな。いろいろと傷ついたけど、そんなに悪くなかったと思う。相手もそう思ってくれてるといいけど・・・。
昨日、飲みながらそういう話もちらほらしていた。うまくいかないとしても、頑張ってくれているのが見えるとうれしい、みたいな。嫌われていると思ってたけど、そうでないのかもしれない。そうなると、人もあんまり捨てたもんじゃないなと思う。あるケースでは、オレを孤独にした恨みも一時期あったけど、それはやはり逆恨みなわけで。
それにしても運も悪かったよなぁ(笑) それは俺らしいのでしょうがないけども。まあ、終わったことなので、しょうがねえか。
とにかく、あーだこーだと飲みながら、捨てたもんでもないなと思った。

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