家庭力 / 自分の尻を叩く

友達にやたら笑顔のかわいい女性(20代)がいるのだが、彼女はいつも明るい。どこかぬけているのだけど、芯から沸いて出てくる朗らかさのようなものは不変である。こういう人ってバックについてる家庭力が強いんだろうなぁといつも思う。
深淵は知らない方がいいと思う。そういうものがあると想像しないなら、そこに落ちることはない。本当は地面のすき間にわずかに存在しているのだけど、普通に歩いていればまず落ちることはないし、幸せに人生をまっとうし、生きていけるのだろう。
生まれついて強い家庭力を持つ人は、よほどのことがないかぎり本当の不幸を味わうことはないし、何があっても強く生きていけるだろう。
このグループは70%くらいの割合だと思う。
そしてその半分の35%くらいの人と私はうまく付き合えないだろうなと思う。ベースが違うし、苦しみを知らずに生きてきた人はどうも気楽そうに見えて、コクがないというか・・・。話してても、身軽すぎるのである。なんていうか、土台のレベルが高い。高い谷間に渡された薄い板の上で会話しているように感じる。彼らには、その土台が確実なものと感じられるのだろうけど、私にとってはその土台はもろく、はかない。そんな薄い板の上でとても手放しで楽しくやっていくことなどできない。例えその板がまず踏み抜かれないとわかっていても、一度でも落ちたことのあるものは、その恐怖を忘れない。その板の下の深淵を。誰かがその板を引っ張るのを警戒しなければならない。
そんなわけで安心して気楽に生きてる人とは、別に悪い人じゃないんだけど、どうも食い違うことが多い。


だからといって、家庭力のない同士で付き合うのも、難しいことが多い。そこには暖かみの記憶というものがないからだ。コインロッカーベイビーズ的である。同士ではあるけれど、確実なものを生み出すというのがなかなか難しいだろう。寒く終わってしまうこともある。けど、違う二人がぶつかることによって熱を生じることもある。それは記憶になくても、求めていた暖かさなのかもしれない。


・・・と、何を書きたかったのか忘れたけど(笑)、まあいいや。


久々に、太宰治の「人間失格」を読んだ。実に高校以来か。読んだら自殺したくなる本と聞き、好奇心で入手して読んだっけ。なんとなく深刻で可哀相な話だと思ったのだった。で、今読み返してみると、昔わからなかったことがよくわかった。世間に対する恐怖とか、「綿でさえも僕を傷つけるのだ」とか、しんみりと読む。筆致が繊細である。凄い文学者だと思う。
読んだら無性にやる気が湧いてきた(笑) やはり私は自殺などしないタイプらしい。死にたいと思うことは数あれど、やっぱり生きてて打ち勝ちたい気持ちの方が強い。死ぬことはいつでもできるし、一泡吹かせないと面白くないだろう。私は家庭力はないけど、負けず嫌いらしいので、そういうところはラッキーだと思う。ただ、怠惰なので、追い込まれるまでは弱ってるフリをするのだけど・・・。
誰も尻を叩いてくれないので、自分で叩かなきゃな。
下手したら、もうそこに辿り着いてるのに気がついてないだけ、ということも有り得るからだ。

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