命の重さはどれくらいか

人質を殺すのか、それとも撤退か。ダッカ事件以来、久々の究極の選択がやってきた。「人の命は地球よりも重い」とはロマンチックで良いセリフではあるが、テロに引いたと国際的な反感を買い、福田父は失脚した。
そして今度は皮肉にも福田Jrにおハチがまわってきて、きっぱりと断った。
即ち、国策は命より重い。もっとも、イラクの勘違いという風に誘導する「撤退する『理由がない』」というのは何気ないながらも鋭い答えであった。撤退しないとは明言してない。しかしそれは表向きだけで、イラクにとっては占領してくるアメリカの仲間だし、実際アメリカの走狗となっている部分はある。だから、日本が表面上の言い訳をしようと、結局はイラクは「アメリカのために撤退しない」と取るだろう。この時点で人質の命は非情に危なかった。
私は人の命はもっとも大事であると思っている。なぜならやり直しが効かないからだ。誰だったかの格言に「金を失ったら少し失ったことだ。名誉を失ったら多くを失ったことだ。勇気を失ったらほとんどを失ったことだ」なんていうのがあったけど(うろ覚え)、名誉は時間をかけたら回復可能なものである。しかし、命は不可逆でやり直しが効かない。
ネット上の議論を見てみると、「韓信の股くぐり」だとか「臆病は罪でない」とか、撤退を勇気あるものとする記述が見られた。私も確かにそうだなと思うし、わりと常識的な選択だと思う。ではなぜ、その選択を政府がとらないのか。
それはやはり予防のためだろう。人質という手段を認めてしまうと、後から後から人質事件が後を立たない。その結果、犠牲者が増えてしまうのである。すなわち、「命より国策が大事」ということではなく、「命より、もっと多い命が大事」ということなのだろう。多くの命を救うのが国策である、と。(数学的には無限大の大きさは比べられないのだが、数の多さで比べられると言う事は、一応命は有限の価値単位であるのかもしれないけれど)
50人死ぬよりは3人死んだ方がマシという考え方か。
また、命の価値という点で考えてみると、例えばあの人質が麻原、宅間、真須美らの死刑囚であった場合、「殺してもいいよ〜、どうぞどうぞ」という風になるかもしれない。とすると、価値の小さい命は軽いという風になるのかもしれない。
今捕らわれている3人は、個人的にはわりと価値がない人だと思う。ただ、殺されるほどは酷くはない。だが、もっと多くの人々を救うために殺されようとした。(この後、解放されるのかどうか不明だが)
ナイフをつきつけられた今井少年。目に見える形で、もっとも重いと思われる存在が消されようとしているところを見た。命は消されえるということをこの目で確認してしまった。それを認識するとしないではえらい違うと思う。それを確認してしまった以上、今までとは違う生き方にならざるをえないだろうと思うくらいショッキングなことだった。タフな世界である。
そう、人の命は見た目よりもやや軽いのだ。そして私は殺人を傍観しつつつあったのだ。殺人に協力したといってもいいかもしれない。あのテロリストのナイフのはしっこを私も握っている。
辛い選択である。
それは血の滲む判断でなされないとダメだろう。いつだったか、国境なき医師団が、もう助からない子供から酸素ボンベを外して、助かる子につけかえた話を聞いたけど。それは同じ命あるものとして身を切られるような辛い選択であるはずだ。
政治は非情だ、と自民党の誰かが家族に言ってたけど、非情な決断をしなくて済むようにコントロールするのも国の役目であろうと思う。また飛んで火に入っていった3人も、政府に対して非情な決断をさせるべきではなかった。
我々ができるのは、ここから学ぶことだけだろう。

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