助けてくれてありがとう

夏の暖かな日差しに照らされて、心がだんだん柔らかくなってきた。いろいろと積み残し事案もあったけどぼつぼつ片付きだしたし、落ち着いて物事を考えられるようになってきた。やりたいことリストはまだ唸っているけれど、一つ一つその日暮らしで片付けていけばなんとかなりそう。
柔らかくなっていく過程で、見なかったことにして無視していた痛い感情が、海の底から上がってくる泡の様に記憶に蘇ってきた。痛かった感情はいったん無視することはできるけど、消えることはない。それは疼痛となってその存在を時々主張するし、いつかは処理しなくてはいけないものだ。
そんな悲しみをほとほとと味わいながら夜のしじまを味わっていると、やがて痛さの合間に隠れた希望も見えてくる。悲しみを無視するということは、そういった希望をも見捨てることであって、辛くもないけど楽しくもないという状態に陥る。そもそも希望をかなえようとして感情を持ち、それを裏切られたから、それらが塊魂となってからまりあっているのだろう。
その痛みの感情をきちんと涙を流して受け止めて味わうことにより、そこにからまって見捨てられた希望は取り戻せる。直後は泣くことも出来ないけども、多くの場合も時がたって認識できれば泣くことができる。どうしても泣くところまでいけない、忘れられない痛みというのもあるけど、そういうのは塩漬けして墓場まで持っていくしかないんだろうな。


そんな痛みは折に触れて顔を出す。それは不安や恐怖といった形をとることが多い。
「このまま行ったらきっと良くないことが起こる」
「この幸せをいつか失うかもしれない」
「裏切られたらどうしよう」
等々。それは過去に受けた心の悲痛の叫び、二度と味わいたくないという防御反応である。それらの恐怖感情は注意を喚起してくれている。そしてそれらは自由な行動の妨げになったりもする。
でも見方を変えてみると、それは自分に対する抑制、防御、すなわち助けの手なのだ。不安や恐怖というのは自分を助けようとしている、かばっているのだ。自分の味方といっても過言ではない。
逐一、自分を助けようとしている声なのだ。自分の味方。自分を助けようとしている自分がいるということなのである。自分には味方がいないと勘違いしがちだけども、実は自分が助けようとしていたのである。
だから、不安や恐怖を感じた時は、それは自分が自分を助けようとして働いていると認識して、「助けてくれてありがとう」と思えばいい。
助けてくれてありがとう。
不安や恐怖は敵ではなく、むしろ味方なのだ。365日、24時間働いて守り続けている。
そう考えると、私はものすごーく味方が多かったりするのだが(笑)
助けてくれてありがとう。でもそんなに頑張らなくていいよ。一人で何とかやれるから。
心に傷を負ってしまった自分に対する優しさといたわり。それが恐怖と不安なのである。
心に喜びを得られた時の賞賛。それが自信。
いつも自分を見守っている。

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