手で触れるくらいの確実感

先週はイギリスに住んでる友人がお盆ということで帰国していて、会う事になった。彼の結婚式以来2年ぶりか。大の親友である。
しかし、その日は絶不調であった。久々の友達に会う時くらいピシリとした自分でいたかったのたが、仕事上のトラブルがもろもろあって、気分はブルーだった。しかも不運が立ち込めていて、会うのにも一苦労だった。
まず、待ち合わせ場所に到着して「早目についた」と連絡しようと携帯で電話したら、その受話器から「お客様の都合により、この電話は制限されています」との声。なんで?と思ってよくよく考えてみたら料金滞納だった。別に貧乏というわけではなく、先々月に、支店が次々と閉鎖されそのたびに諸手続きをしなければならないりそな銀行の口座にムカついて閉鎖したのである。ところがそこから携帯の支払いを変更してなかったという訳。不注意とはいえ、何も電話でしか連絡の取り様のないこの日に電話が止まることないじゃないかっ(;´`)
しかも相手の持ってるのはプリ携で、度数が切れそうだと言ってたし、東京も不案内だからこっちから電話するのが望ましい。新宿に降り立ってボーダフオンショップを探した。ビックカメラで聞いてみると、東口店が一番近いとのこと。慌てて駆けつけた。
ところがなんとお盆休みだったのである! 寒々としたシャッター。時間ないのに! 焦ってさくらやの前にいたヤフーBB兄ちゃんにノーパソで調べてもらう。すると南口店が判明。甲州街道沿いとのこと。
さらに走る。ああ、あの日は暑かった。汗だくになりながら南口についたのは7時過ぎ。しかし。
「7時で閉店です」
従業員は冷たく言った。まだ店の中には若干の客がいるのに。
「急いでるんです」
「でも無理です」
冷たい都会の風が吹いた。しかし、最後に
「西口店なら8時までやってますよ」
とのこと。よおし、こうなったら行ってやるよ!
しかし西口店はなかなか見つからなかった。聞く人聞く人が違う場所を言ったり、行った所がAUのショップだったりしたからだ。
それでもやっと西口店を発見。しかし入ってみると、長蛇の列。待ち合わせにはもうとっくに遅刻している。近くに案内係が立っていたので、とりあえず遅れることだけでも電話しようと
「あの、電話貸してください」というと、
店員「公衆電話だとあそこのコンビニにあるかもしれません」
との答え。携帯電話ショップなのに使える電話は無し。オレが店員なら自分の携帯を貸すところだけど、そんな親切心は毛頭無し。そしてコンビニに行ってみたら電話は故障中。
(終わった、何もかも…)
と挫折しかけたが、わざわざイギリスから帰省してるのに会えないというのは苦しい。そもそもこういう不運は私にとっては日常茶飯事なので、こういう時こそ機転が試される時。
すわ、とジェイフォンショップに。優しそうなお兄ちゃんを発見。
「あのどうしても急いでる用事があって…。申し訳ないんですが、番号札を変えてくれませんか?」
と恥を忍んで申し出た。すると、私の困りきった様子に気づいたその人がにっこりと
「いいですよ」
と交換を受諾してくれた。今度は都会に温かい風。しかも番号は次に呼ばれる番号だった。
そしてカウンターで不足金額を払う。
「電話は10分後に回復しますので」
とのこと。その時、相手から電話がかかってきた。待たせすぎだ。
「おい、まだかあ?」
「すまん、ちょっとトラブっとって…。今どこや?」
「なんか小田急が見えピーーーー」
度数が切れたらしい。私は小田急に向かって走った。走りながら電話すると
「お客様の都合により…」
との声。まだ回復しない。10分が長い。相手は折り返しコールを待ってるというのに。TVは映るのに電話は出来ない携帯。
そして小田急が見えた。また電話をかける。
すると今度はすぐにつながった。
「もしもし」
「おう今どこや…」
・・・と。目の前に電話を持った懐かしい背中が見えた。お盆の新宿西口の広い人ごみの中、何気なく立った場所はほぼ同じところだった。さすがは親友である。そして何も言うことなくお互いに気づいた。
「おう、久しぶり」
と彼は明るい笑顔で言った。もしかしたら電話なんかいらなかったかも(笑)



彼は奥さんを連れてきていた。ヨーロッパの金髪美人なので目立つことこの上ない。奥さんに抱きしめられて両頬にキッスされるとますます目立ったりして(笑)
そんなこんなでメシを食いに行って楽しくしゃべる。奥さんがいるので会話はほんど英語になり、久しぶりに普段使ってない部分の脳みそを酷使する。もっとも中学英語バリバリなのだが(笑)
話してて思う。この流れるような開放感は何だろう、と。間接に油がまわって思考スピードも速くなる。気持ちが良くなる。それは多分存在が確定しているからだ。孤独でいると、自分の存在意味を常に問い続けなければならない。誰にも必要とされてないというのはそういうことだ。しかし、目の前に自分を認める誰かがいて、そしてその誰かが自分を好きだった場合、存在を問う要もない。目の前で常に具体的に理由が証明されるからである。
世の中には自分がいづらい場所というのがある。たとえ人に囲まれていたとしても、いや群衆の中だからこそ孤独を感じる場合もある。私はいろんなそういういづらい場所を対処法も知らないまま彷徨ったので、そういう諸手を上げて自分がいれる場所というのは、ほんとに久しぶりでうれしかった。
それは実に、手に触れられるほどの確実感であった。信頼ということ。目の前に心から信頼できる友達がいるというのは素晴らしいことだ。この日の携帯にまつわるトラブルとか仕事のゴタゴタとかも一気に吹き飛んでしまう。
でも問題は、私が求める人々はほとんど遠くにいることが多いということだ。それは地理的な距離だったり、事情的な距離だったりするけれども。あと、本当に仲良く似れる人も数少なかったりする。
楽しい時は一瞬で過ぎ、また会おう、とお別れ。少しメロウになる。高校の頃は学校に行けば毎日会えたのにと思う。けれど幸運だったのかも。気が合うというのはなかなかないし、一人でもそういう相性バッチリのやつが少年時代にいてよかったと思う。彼がいなければ私の高校生活は物凄くつまらなかっただろう。
自分は好かれるという感覚がどうもピンと来ないし、ワガママな自分がいずれ相手を傷つけることをよく知ってるので、長く付き合いが続かない。だからして自己改革して自分が世の中にフュージョンするしかないのである。でもそのままでいられる友達というのはやはりうれしい。不完全であっても。
なんというか友情的な夏のボーナスという感じであった。

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