言い訳しないでもいいけど足りないもの

言い訳しないでいいというのはいいことである。「いや実はあれはちょっとした失敗で」とか「今日はちょっと調子が悪いので」とか「本当のオレはこんなんじゃないんだ」とか。
でも本当のオレはこんなんなのである。ずっと目をそらしてきたけれど。
生き馬の目を抜くというか、戦場のような時代を生き抜く時、「いかに振舞えば最も得をするか」という観点で生きていると、自分の役割というのは作られていく。人の目をうかがい、憎まれないようにするには自分を消すしかない。それは自分から見た人生ではなく、他人から見た人生であり、他人の人生の脇役として存在することになる。
かくして保護色的自己コントロールが生まれる。本来の自分はとうに失い、自分が今の時点でどういう役割かということが存在の基準となる。様々な価値観の他人に合わせていくので、自己の一貫性はなく、その場しのぎの存在となる。
しかし、皮肉にも誰にも必要とされなくなった時、その絶対的基準が消える。誰のために演じればいいのかと。自己はとっくに消失していて、途方に暮れる。
でも、しばらくすると水に舞った不純物が沈殿し、少しの輪郭が現れる。過去に埋もれた自分自身の輪郭がうっすらと胸に起こる。消えゆく夢を思い出そうとして果たせない感覚。でもそれは確かにそこにある。


しかし、プログラムのないコンピュータを置いていてもそれはただの箱である。そこに走らせるなんらかの基準が必要だ。そして、基準はそのあたりにあふれている。各個人の基準は必ずしも一定ではないが、ある大きな流れ、最大公約数的な基準が「だいたいこのへんだろう」という具合にいわば基準帯として存在する。それは感覚的にしかわからないものだが・・・。私はかなり間違った基準を生来インプットされていたのでその修正がかなり大変なんだけど、まあこれはやっていきたいと思う。
重要なのは、誰かを必要ではないけど、やはり誰かを求めているということである。あと、思うのは、別に努力しなくたって年を取ったらそれなりにまともになっていくのだなぁということ。もしかしてこうしてごちゃごちゃ考えるのは無駄なことなのかもしれない。
いや、それとも考えてるから前に進んでいるのだろうか。微妙なところだ。


言い訳しなくてよくなったものの、傷だらけで水の底に沈んでいる自分がいる。プログラムもなく無防備で気持ちだけで思いっきり戦車に突っ込んでいった残骸が…。このヒトは大丈夫なんだろうか? でもまあ大丈夫だと仮定しないと始まらないのだが。
使えるレベルになるまで最大公約数的基準をきっちり再教育しないとな。

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