メールの返事書けないシンドローム

返事がかけないのは時間がないとか量の問題もあるけど、根本的には「期待にこたえられるかな…」と悩んでしまうのが原因である。現在、自信というのがあまりないので、自分の資格だとか、不完全だなとかいろいろ考えちゃうのである。別に不完全なままでもいいんだろうけど、そうなると自分の目指す姿ではないし、なんていうか硬い基盤を持って力強く生きたいので、その方法がわかるまでは自重していろいろ考えてみようと思っている。
私はわりと外面(そとづら)がいいので、期待を持たれる事がある。でも実際は大したことのない、パッとしない人だし、俗物である。なんか期待を裏切っちゃうかなーと思ってしまうのである。多少はいいとこもあるのかもしれないけど、公平に見てまあ大したもんではないだろう。もっと言えばがっかりされるのがイヤなんだろうなぁ。がっかりされ体験の多い私としてはツライところである。
またネットでのメールというのは、わりと親近感が強いものを頂く時がある。そういう時はいい加減に答えるわけにもいかないので、ますますプレッシャーがかかる。どちらかというといい加減に生きている私だけに、これまた考えてしまう。考えてるうちに時は過ぎ、いつしか返事を出すとかえって失礼になる時期になったりする(笑) やっぱり半年たってから、「こんにちは、そのことですが…」と返事するのも失礼だし。でもそのメールはメールソフトの中でいつまでも存在を主張し続けるので、PCが壊れたりしてデータが飛ぶまでは、見るのがちょっとつらいという状態になる。
それと「自分の状態がいい時」に書きたいというのもある。しかし、そんな状態になるのはあまりないし、状態がいい時は、考えることの必要な仕事をしたいと思ってしまうので、やはり返事を書けない。なんせ、自分の今までの人生には多くのエラーがあったと気づくに至ってからというもの、間違いを恐れて踏み出せない自分がいる。なんか立ち止まったままジジイになってしまいそうだ。かといって手放しで走りたくないし…。
硬い基盤ってなんだろうと考えるに、今日ちょっと思いついた。多分、硬い基盤というのは多くの人間の集合意識的、本能的傾向の集積ではないかと。常識、というのに近いと思う。硬い基盤を自分の中に探して、見つけたと思ってもそれは知らぬ間に変動する。それに悩んでいたんだけど、もし固い基盤というものが自分とは独立した別の多くの人の概念なら、それは不変で確かなものだろう。本能の善意のある領域。そういったものを具体的イメージとして捕らえればいいんではなかろうか。宗教なら神がその基盤を与えるんだろうけど、やはり神は信じられないので、結局は人々の良心というのが基盤になりそうな気がする。あと、長年受け継がれてきた生活態度とか。そういったものを基盤にすれば、それは多くの人の共通ルールであるし、人間関係においてもそれほど踏み外さないんではなかろうか。固い基盤というのは自分の中に作るものではなく、もともと普遍的に社会に存在するものなのかもしれない。私はいつも自分の性格の振れ幅が大きいことに悩んでおり、ある時はホトケ、ある時は鬼なので、そういったところからも嫌われやすいのだが、例えばある日フレンドリーだったかと思うと次の日は取り付く島もなく冷たかったり(それで、相手は心を開いたのに、私が応じなかったと激怒する。でもそれはそういうモードになってんだからしょうがないのだ。悪気はないんだけど)、そういう自分の状態に左右されるのではなく、社会的良識に拠って、自分を制御すればそれほど誰かを怒らせたり失望させたりしないですむのかもしれない。自分の一貫性というのはわりと大事なんだと思う。
まあバカみたいに生のままでいるというのはできるので、やはりそこから先のものが必要だろう。
そしてきちんとした人間になって、スイスイとメールに返事を書けるようになったらいいなぁと思う。

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