引け目が消える日

一昨日書いた「強固な基盤は良識の最大公約数的なものである」という仮説はなかなか正解に近いのかもしれない。自分の調子によらないから強固だし、それは長時間たてば少しは変わるかもしれないけど、短期的には不変なものであろう。そもそも他人というパラメータと関わるためには他人を含んだ共通基盤が必要になってくるわけで、その一般的なルールに沿うというのが合理的である。
旧来の自分の理論だと、「うまくいかない」→「自分が悪い」→「自分変えなきゃ」というストーリーになるんだけど、今回の仮説によると「うまくいかない」→「ルールに沿ってない」→「ルールに適応しなきゃ」ということになってそんなに引け目は感じなくなる。自分を変えるのではなくて、ルールに沿うという風にすればよい。すなわち、自分の非を責めるのではなく、ありのままの自分で、ただルールに対する認識を改めれば良いということになる。ルールに適応するというのはまあ初歩なら挨拶するだの他人の都合を考えるだのがあるけれど、それは相手にも守ってほしいことだし、果たすべき義務といえるだろう。しかもそんなに困難な義務ではない。
今までは自分が悪いという引け目を感じていたけど、実際にはそうでなくてルールに対する知識の欠如だったと言える。自分をエラく見せるのではなく、ルールを覚えればよいだけということになる。幸い、そういうルールについては親からは引き継いでないものの、良い友達が生涯にチラホラいて、体験的にストックしてあるので、そこのメモリーをベースに作っていけばよいだろう。とにかく引け目が消えたのはいいことだ。言い訳しないでいいし、誰かに責められてるような気持ちにならなくてもいい。なんか自由だねぇ。


まあしかし、まだまだ問題は解決しない。これまで被ったダメージをどう回復するかということもあるし、防御にかまけて、自分の姿勢を築いてこなかった遅れもある。誇りなく下賎な部分もあるし、粗にして野にして卑であるといった風にも感じる。そういう部分はしっかりダメ人間であるといえるのでボチボチ改良していきたいところだ。そういうところがわかってるから、もう一歩押せないんだろうな。でもまあ西村知美だってあんなに変なのに頑張って生きてるのだからオレも頑張ろうと思ったりして(笑) 


孤独が続いた後に友達と話すと、やはり癒される感じがある。自分を預けてもきちんと認めて押し返してくれる感じ。そういった自分の存在の脱力といったものも必要なんだろうな。ずっと体内に自分が詰まっていると濁ってくるというか。自分を放り投げてそして返してもらうのは虫干しするように気持ちがいい。今まではそういうありがたい友達に対して、オレなんかですまないという引け目があったけど、上記の仮説を使えばそういう気持ちは薄れる。自分できっちり計画を立て、力強く生き、自分なりの筋の通った人生観が完成されてない分、雑魚だけども、引け目は感じないでいられる。それは結構大きなことだ。肩に力入れなくていいし。まあこんなもんでござんすと存在していられる。自分が流れを作るというよりも、大きな流れの中で漂うといった感じ。まあ嫌われることもあろうけど、それはオレのせいではないと。悪いことしてないし、ルールに沿ってオレはオレで生きてるんだ、と。まあそんなわけで地味に好きなように生きていこう。残念ながら世界征服はかなわなかったが、実際そんな必要もなかったんだろう。

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