真実との距離 / 全つっぱ

何かつらいことがあった時に、その本尊にぶち当たって処理する方法と、フタをして忘れてしまう方法があると思うけど、私はなるべく本尊にぶち当たろうと思っている。いろいろごまかしたり、言いつくろったりするのはできるけど、フタをしたことによる弊害はいつまでも残る。それよりは、根本問題をきちっと処理した方がいいと思うのである。しかもできるだけその場で早く処理しないと、落馬した者が馬に乗れなくなるように、しこりの刻印は深くなっていく。
けれど世の中には耐え切れないことがあって、やはり反射的にフタをしてしまうことがある。一つフタをすると、連鎖的にフタをして動けなくなることも。こうした時には、その根本的問題よりむしろ、恐れることを恐れる状態になって、真実からはどんどん遠ざかり、妄想の恐怖が支配する状態になる。
でもそれに気づいた時はやはり真実に近づくのがいい。真実を自分に認めさせるのはとても辛いことだけど、真実を認めないと現実的な対策をたてられないからである。借金の請求書に目を伏せることは出来るが、そうしていると雪ダルマ式に増えていくのと同じである。辛い現実を認めると、借金を認めて破産するなり、一本化するなり、稼ぐなりの具体的手段も浮かんでこようもんである。
もちろん、回復不能な事柄もある。しかし、回復不能と認識すればするほど、本能的にあきらめることができる。あきらめきれないとしても、そのまわりに漂った変な不純物は取り去ることが出来る。不純物を取り去ったあきらめきれない思い出というのは、案外美しいものになってることも多い。そこには自分の純粋な取り組みの跡が見えるし、時間によって熟成された叡智が本質を解読してることが多いからである。真実に近づくことが再スタートなのだと思う。


再スタートした後は全つっぱで行くべきである。少しずつ自分を小出しにするよりも、全力出しした方がいい。不純物が取り去られた自分というものは心細く貧弱に思え自信がないが、早く外圧に晒された方が自分を取り戻しやすくなる。真実に近くてごまかしがない限り、「思考する」という武器が使えるようになる。ごまかしてる時にはいちいち、自分の設定したごまかしラインへの幅寄せが必要になるが、自分の真実に即して動いている場合は、そういった手間が必要ない。ダイレクトな機能になる。心の底から思ってることが言えるようになり、妙に気後れしたり、引け目を感じなくても良くなる。何も持ってなくても魂を解き放つことが出来る。不純物にすがって立ち止まるよりもずっといい。真実に近づくということは失うことではない。
そこには清涼な風が吹いている。

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