希望ブロックと絶望回避

希望を定量的に表すために、個数表示にすると、今現在、私の希望ブロックは6個程度。キャパシティは200で、6/200となる。8月はほぼゼロだったのでだいぶ調子が出て来た感じである。
ここ2年くらいは、わざと希望ブロック数を少なめに維持してきた。これは痛みを回避するためである。希望があるほど、痛みを大きく感じる。希望をもっているほど裏切られたダメージが大きいからだ。大きく傷つかないためには希望を少なくする必要がある。不幸な人のわりとポピュラーな手段である。
また、希望が少なければ、孤独感も減少する。例えば10代の孤独と60代の孤独では後者の方がしのぎやすい。60代だとあまり希望が強くないからだ。10代の孤独はこたえる。ましてや小学生くらいの孤独は飛びっきりこたえる。
何か大きなアクシデントで傷ついた時、人は希望ブロックを削っていく。そのダメージを癒すために。ただし、あまりにも強い絶望が来ると、絶望はそれを絶望と感じさせないくらいに暴れる。そしてやや回復して沈静した後は、その絶望状態の現状認識により死にたくなる。希望ブロックを削る最も効率的な方法は死を願ったり、自分の死を想像したり、自分の死を知った他人の反応を想像することである。これは短期的には快楽をもたらすが、結局は希望ブロックを削っていくことになる。


希望ブロックは電池のようなものである。電池が切れてくるとだんだん動けなくなる。感情の動きが少しずつ停止していき、睡眠時間が長くなる。自分のことしか考えられなくなる。他人の足音や視線が怖くなっていく。
そうするとますます人は自殺したくなり、さらに希望ブロックが削られる。デッドエンドになる。
問題は、希望ブロックを減らすのは一人でも出来るが、希望ブロックを増やすのは一人では困難ということである。これは多分、生きるということの意味には、他人との関連性が重要な要素だからであると考えられる。
辛さをやりすごしたり、自分の欠点に本気で向かい合う場合には、希望ブロックを減らすのはわりと有効であるが、減らしすぎるのも良くない。そこは危険な場所で、あんまり長くいると凍りついてしまう。
ちょっと漬かったとしても、早々とバスタオルにくるまれ、暖かい草原へと戻るに限る。

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